1909年に京成電気軌道株式会社が誕生。その3年後となる1912年11月に記念すべき第1期線が開業しました。
柴又帝釈天は、商売繫盛の信仰対象として当時から賑わっており、柴又~金町間の開通によって、乗客の利便性が向上しました。
悪条件が重なり、江戸川の架橋工事は困難を極めましたが、8月に江戸川橋梁が完成。駅名を市川から江戸川に改め、江戸川〜市川間の運転が開始されました。
当初の計画では、大部分が千葉街道を経由する併用軌道でしたが、軍隊行軍用の道路でもあったため、専用軌道を千葉街道の北側に敷設するルートを再申請し、開通に至りました。
中山~船橋間は丘陵の起伏が激しく、切り通し工事や埋め立てを要する部分も多くありました。
東京から千葉にはすでに総武線が走っていましたが、まだ蒸気鉄道で本数もわずかでした。沿線住民の期待が高まる中、9年の歳月をかけて押上〜千葉間の36.9kmが全通しました。
当社は千葉線を開通させたことから、千葉方面と成田方面への分岐点を再検討。船橋から津田沼へと変更して工事を行い、津田沼~酒々井間25.3kmが開通しました。
成田花咲町は、現在の京成成田駅より約300m酒々井寄りの地点に仮駅として設置。当初は新勝寺山門前に乗り入れる計画でしたが、門前町への影響もあることから実現しませんでした。
1925年11月に当社は約30万㎡の谷津遊園を開園しました。この谷津遊園への旅客誘致のため、花輪(現・船橋競馬場)から分岐する谷津支線が開業しました。
白鬚線は向島~白鬚間1.4kmを結ぶ路線でした。都心進出を果たすため、三ノ輪橋で王子電気軌道(現・都電荒川線)との接続をする計画がありました。
仮駅であった成田花咲町駅の設置から3年後、現在の位置に成田駅が完成。名実ともに、東京と成田を結ぶ「京成線」が誕生しました。
工事区間は、住宅や工場が密集する地域であったため、路線の大半は高架方式が採用されました。しかし、先例が少ないことや地盤が軟弱なこともあり、非常な苦労を要しました。
日暮里~上野公園間は大半が地下であったことや、世伝御料地(皇室所有地)の下を通過せざるを得ない事などから多くの困難がありました。12月に念願の全線開通が実現するとともに、私鉄として初めて山手線内へ入ることになりました。
谷津支線は谷津海岸駅から谷津遊園までの道路ができて来場者の便が良くなったため、1931年から運転を休止しており、1934年6月22日に廃止となりました。
白鬚線は当初予想より乗客が少なく、青砥~上野公園間が開通したこともあって廃止されました。また、同日に白鬚・玉ノ井・長浦の3駅も廃止されました。
都営地下鉄への乗り入れに向けて、通常営業を行いながら京成全線を1372mmから1435mmへ改軌しました。また、押上駅の地下移設工事を行い、日本初となる郊外電車と地下鉄(都営浅草線)との相互乗り入れを実現しました。
空港新線は1972年11月に、成田空港駅は1973年5月に竣工していましたが、反対運動による成田空港の開港延期のため、開業まで5年以上の月日を待たざるをえませんでした。
念願の成田空港ターミナルへの直接乗り入れが実現。スカイライナーを日暮里駅に全便停車させ、日暮里〜成田空港間を56分で結びました。
当社は千葉急行電鉄から千葉急行線の営業を譲り受け、千葉中央~ちはら台間の10.9kmを京成千原線として営業を開始しました。
成田スカイアクセスの開業と、最高時速160kmのスカイライナーにより、日暮里駅から空港第2ビル駅まで、36分の速さを実現させました。